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イギリスの詩人,欧博注册劇作家。シェークスピアを単に〈時代を超えた天才〉とみなすのは正しくない。彼の作品がもつ普遍性は,彼が生きた歴史的状況のなかで彼をとらえなおすことでいっそう明らかになる。たとえば彼の創作活動はロンドンという当時のヨーロッパ最大の都市においてのみ可能だったのであり,彼の演劇は最初の本格的近代都市文化の華だった。膨張する人口,とくに知的好奇心の旺盛な市民層の増大が,の観客動員数を保証したばかりではない。都市化にともなう人間性の暗黒面の露出も,劇作家の想像力を刺激した。市民文化と宮廷文化の接点にいたシェークスピアは,同時に,生い立ちからいっても都市文化と田園的自然の双方にかかわっていた。とくに中世的民衆文化のカーニバル(祝祭)性は,彼の演劇の基層をなしている。他方,ハムレットに見られるように,極度に洗練された近代的知識人の危機と不安をも,彼は射程にとらえていた。こうした境界性と多義性こそ,欧博代理彼を現代にとっても興味尽きない作家にしている特質である。 言語についても同様である。中世的秩序を破って急膨張したルネサンスの知的・世俗的エネルギーは,シェークスピアのブランク・バース(弱強五歩格無韻詩型)において,最良の言語的表現を見いだした。この詩型は彼の先輩が発明したものであるが,彼の手によって,猥雑な洒落から最強度の詩的燃焼まで,自在な振幅と転調を表現しうるまでに完成された。英語の歴史でいえば,中世的素朴さと近代的合理化のはざまに出現したこの言語的豊かさは,現代にいたるまで凌駕されたことがない。 しかしシェークスピアが現代に対して最終的に啓示するものは何であろうか。焼失したグローブ座の入口には〈世はあげて俳優を演ず〉というラテン語が刻まれていたという。彼の作中人物も〈この世は舞台,人はみな俳優〉と語る。ダンテの《神曲(神聖喜劇)》におけるような,神という統一的視点から見られるドラマはすでに不可能であったが,そのことはかえって無限に複雑なしくみをもったドラマをシェークスピアにとって可能にした。《ハムレット》が典型的に示すとおり,演技と行動,欧博官网役割と本心,実体と仮象,うそとまことなどが多様に響きあい戯れあうなかに,演劇によってしか開示しえぬ世界と人間のありようが浮かび上がる。孤立した自我,理性的言語,科学的真実などに対する近代的信仰の行きづまった現代において,シェークスピアを支えた,また彼が掘り下げた演劇的世界観・人間像はますますその魅力と重要性を増すように思われる。 シェークスピアは・オン・エーボンの富裕な皮革商の長男(第3子)として生まれ,町のグラマー・スクールに学んだのち,青年時代の大半をそこで過ごした。1582年に8歳年上のアン・ハサウェーと結婚して翌年1女をもうけ,さらに2年後には男と女の双生児が生まれた。やがて故郷を去ってロンドンに出,演劇人の生活に入った。現存する彼の作品で最も早い時期のものは,欧博娱乐2編の物語詩《ビーナスとアドニス》(1593)および《ルークリース凌辱》(1594)である。このころまでに彼はすでに新進の劇作家兼俳優として名を成していたとする証拠がある。94年に宮内大臣一座Lord Chamberlain's Menが結成されたとき,幹部座員としてそれに加わり,精力的に活動を続けた。彼の成功は97年に故郷に〈ニュープレース〉と呼ばれる大きな邸宅を購入したこと,また99年のグローブ座完成に際して劇場の所有主兼株主のひとりとして名が挙がっていることからも察せられる。1603年エリザベス女王の死とジェームズ1世の即位にともない国王一座King's Menと改称した劇団は次々に彼の円熟期の作品を上演し,彼は当代随一の人気と尊敬を集める作家となった。08年に劇団が完全屋内型劇場のブラックフライヤーズ座を入手する前後から,新しい劇場環境に合わせるかのように,作品に著しい変化が見られる。11年ごろからは故郷のニュープレースに住み,ときにロンドンに戻って共作の仕事に従事したと想像される。16年に没し,ホーリー・トリニティ教会に埋葬された。23年には劇団の同僚たちの手によって36編の戯曲を集めた全集が出版された。ほかに残された詩編が6冊あるが,なかでも,複雑でなぞめいた友人・男女関係をめぐって,さまざまに屈折した愛の心情を吐露した154編のソネットから成る《ソネット集》(1609)は,欧博allbetイギリス詩史を通じて最も高い芸術性をもつ傑作の一つとみなされている。 作品現存する37編の戯曲の創作の順序およびその年代に関しては定説はないが,諸家の説を勘案すれば表に近いものになる。歴史劇の執筆に始まり,軽快な喜劇が多く書かれた第1期の作品は,ことば,筋,人物のいずれの面にも生硬さと陰影の乏しさが目だつが,若々しい感性のほとばしりがそれを補っている。ようやく自己の本領を発揮し始めた第2期には,結婚を終着点とするロマンティックなアクションを,風刺と諧謔によって多彩に色づけた喜劇を続けて創作し,歴史劇にも愛すべき悪党の登場する喜劇的脇筋を構築した。他方,《ジュリアス・シーザー》などの作品にはすでに瞑想的な道徳家肌のブルータスと現実的な扇動家タイプのアントニーといったように,性格創造の内面化が見られる。第3期を代表するいわゆる四大悲劇はいずれも人間における美しい外面と醜い実相の背馳をあばき,善と悪,秩序と混沌の争いを描いた傑作である。中心人物たちは豊かに肉づけされ,彼らの情念はときに壮大に,ときにこまやかに詩的表現を与えられる。同じころに書かれた数編の〈問題劇〉(作品の意匠と意味が明確でなく,相反する解釈を生む風刺性の濃い喜劇)は,表面的には喜劇的結末をもつとはいえ,その底には〈悲劇〉に劣らぬ暗さが感じられる。最後の第4期を特徴づける〈ロマンス劇〉は,おおむね家族の離散から再会と認知そして和解に至るプロセスを筋にしくんだ一種の悲喜劇である。全体として象徴的道具立てとスペクタクル的要素に富む反面,寛容と許し,贖罪と復活がモティーフをなしており,そこに作者自身の人生に対する態度あるいは宗教的姿勢のあらわれを見取る向きもある。 批評・研究シェークスピアの作品は,主知的で調和と規則性を重んじた17~18世紀の古典主義の時代には冷淡にしか扱われなかった。しかし,その後のロマン主義は一転して彼を深遠な哲学者,天才的な詩人として祭り上げることになった。このようなロマン主義批評はイギリスでは詩人批評家のS.T.コールリジによって先鞭をつけられるが,シェークスピアはヨーロッパとくにドイツにおいても偶像視されるようになる。ロマン主義批評は《シェークスピアの悲劇》(1904)の著者A.C.ブラッドリーによって集大成された。また,19世紀のシェークスピア批評は,W.ハズリットに代表されるいわゆる性格批評がその中心をなし,劇中人物の心理と行動原理が追究された。20世紀に入ると,こうした傾向に対する反動が強まり,一方においてアメリカのE.E.ストールやドイツのL.L.シュッキングらの歴史的実証主義に基づく研究,他方においての一派による作品の詩的言語構造の精緻な分析に頼る批評が盛んになった。さらにJ.D.ウィルソンらの科学的書誌学の方法による本文研究や演出家H.G.グランビル・バーカーらの上演を念頭にしての演劇論的批評も発展をとげた。20世紀中葉以後は従来の諸方法に加えて,N.フライらの神話批評,F.ファーガソンらの構造論的批評,精神分析医E.ジョーンズらの精神分析的批評,記号論的批評などあらゆる派の批評がシェークスピアの作品を対象として取り上げるようになり,シェークスピア批評はすべての文芸批評の方法の合流点となった。 日本での受容日本へは明治の初めごろに紹介され,いくつかの翻案がおこなわれたが,翻訳としては坪内逍遥が《ジュリアス・シーザー》を浄瑠璃風に訳した《該撒(シイザル)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)》(1884)が代表的である。さらに逍遥は独力で全作品の翻訳に取り組み,1928年にそれを完成した。 上演としては1885年大阪戎座での中村宗十郎一座による《ベニスの商人》の翻案《何桜彼桜銭世中(さくらどきぜにのよのなか)》が最初である。その後いくつかの作品がいずれも部分的に翻案によって上演されたが,1906年に文芸協会が設立されるに至って,逍遥訳による原作に忠実な上演が可能になった。 大正から昭和初期にかけて,演劇界の主流が,イプセンを皮切りに思想性を重んずる写実的な方向に転ずるにつれて,シェークスピアは時代に取り残された趣があった。文学への影響も,たとえば志賀直哉の《クローディアスの日記》(1912)など,《ハムレット》を題材にした二,三の創作があるが,これも素材となったというにすぎない。第2次大戦後の新劇復興とともにシェークスピアの戯曲はレパートリーの中に確実な位置を占めたが,まだ教養主義的な外面的摂取の域を越えることがなかった。 その点,1955年の福田恆存訳・演出による《ハムレット》(文学座)上演は画期的な事件であった。近代心理主義からの絶縁を宣した福田は,シェークスピア劇に内在する行動のリズムを的確に把握し,〈人生を激しく演戯している〉演技者としてのハムレット像を造形してみせた。その後も彼は新訳と取り組み,現在翻訳は18編に及んでいる。近代劇リアリズムからの脱却は時代の要請であった。 60年代後半に入って,演劇界は急激な前衛運動の波にさらされる。シェークスピアの巨大な劇的世界が,たとえば不条理劇をもくるみこむ強靱なドラマトゥルギーとともににわかに注目を集め,明治期を上回る第二のブームが現出した。逍遥以来のシェークスピア戯曲の完訳である小田島雄志訳(1973-80)は,シェークスピアを〈われらの同時代人〉としてとらえこもうとする風潮の中で生まれた。言葉遊びへの執着も,意味の古典的な絶対性に対する不信という今日的な認識に連なるものである。また上演では,出口典雄主宰のシェークスピア・シアターによる,全戯曲上演(1975-81)という快挙がある。 |
